一章 割れ者注意 … 08

 ぽつ、ぽつり。と不規則に雨が硝子窓を打つような音がする。

――あぁ、そう言えば雨知らせを受けたんだった。

 ぼうっとして上手く働かない頭でそんなことを考えながら、シシルはゆっくりと目を開ける。
 しかし、シシルが目覚めたのは、住み慣れた森の中の家ではなかった。幾度か瞬いてみたが、見知らぬ天井があるばかりだ。

 気を失う前のことは、よく覚えていない。確かなのは、突然何者かに声を掛けられたことに、とても驚いて。……意識が遠いた、ということだけである。

 枕から頭を上げることなく横を向けば、ベッドサイドに置かれたランプの灯のお陰で、辛うじて自分の寝かされていた部屋の中の様子が窺えた。部屋の中央に吊され、影を落とすシャンデリア、洗練された調度品。そして、バロック様式を思わせる部屋の造りからして、何処かの屋敷なのだろう。

 また、夢を見ているのだろうか。あまりにも自分とは縁のないような風景に、シシルは戸惑った。
――今は一体、いつ頃なのだろう。
 ベッドの傍に設けられた窓の外を見やったが、雨が降っているせいで外の様子はあまり分からない。もっと近くで見ようと、身を捩らせたシシルは、自分の足下に何か重みがあることに気づく。

 恐る恐るシシルがベッドの足下に目を向けると、自分とそう年も変わらないような少女が、ベッドに突っ伏していた。眠っているのか、耳を澄ませば微かに寝息が聞こえる。

「あの……」

 この人なら、この状況を説明してくれるに違いない。そう思ってシシルが声を掛けると、ベッドに突っ伏していた少女がひどく焦ったように、ぱっと顔を上げた。三つ編みにした髪を輪にして留めている少女は、真っ黒な目を大きくしてこちらを見つめる。知らせなきゃ。独り言のように呟いて、少女は立ち上がった。

「い、今、エルンスト様をお呼びしますねっ……」
「えっ」

 そう言うやいなや困惑するシシルを振り返ることなく、少女は走って部屋を出て行ってしまった。

 一方、用意された部屋の机で、読み物をしながらうつらうつらとしていたエルンストは、急くような足音に夢からうつつへと引き戻される。
 悲しいことに仕事柄、エルンストは物音に敏感だった。そのため自宅以外では、あまり熟睡できないのが常であった。
 何事かと机から身を起こせば、ノックの音と共に「失礼します」と声が掛かって、侍女が入ってくる。

「エルンスト様! あの方がお目覚めになりました」

 彼女が、少女を任せていた侍女だと思い出し、エルンストは椅子を引いて急ぎ立つ。

「……分かった、今行く」

*・*・*

 一人きりにされたシシルは、起き上がろうとして胸を押さえた。

「いっ……」

 胸が痛かった。あの闇の中で感じた痛みと同じ。心臓を針で刺されるような鋭い痛みだ。俄に襲ってきたその疼きに堪えようと、シシルはベッドの上で身を縮込める。

 声も出せず、息もできないほど。苦しさのあまり、滲んだ涙で視界がぼやけた。
 部屋のドアが開けられたのは、シシルが痛みに必死に耐えているそんな最中で。ドアの方で誰かが息を飲むような音が聞こえ、部屋の中へと駆け込んでくる。

「おい、大丈夫か!」

 聞き覚えのない声の主は、苦しむシシルを見て慌てたように、医師を。と呟いて去ろうとする。その人物をシシルは制した。

「い……で、す。だいじょ……ぶ、です」
「何を言ってるんだ、そんなに苦しんでいるのに!」

 幸い、痛みはだんだんと柔らいでいた。何とか息を落ち着かせたシシルは、やっと自分を案じる人物を見上げる。額に汗を浮かべ、まだ肩で息をするシシルを不安そうに見つめるのは、やはりシシルの知らない顔――栗色の髪に赤い目が印象的な、体格のいい大人の男だった。

「お医者様に……治せるものではないですから」
「……どういう意味だ?」

 訝しそうな顔をした彼から、シシルは俯いて顔を背ける。何も語ろうとしないシシルに、彼は諦めたのか深く息を吐いて、言った。

「言いたくないのなら、無理には聞かないが……本当に大丈夫なのか?」
「……はい」

 自分の手元に目を落としてシシルは頷く。シシルには何故だか分からなかったが、手が小さく震えていた。男はベッドの隣に置かれた椅子に静かに腰掛け、シシルの顔を覗く。近くにした彼の目は、遠目で見たよりもずっと綺麗だった。まるで石榴石のような温かな深い色の赤。

「そうだ、まだ名乗りもしてなかったな。俺はエルンストだ。君は?」
「……シシル」
「シシル、か。いい名前だな」

 問いかけられるまま無表情に応じたシシルに、エルンストは目を細めて優しく笑いかけた。生まれてから、母とウンディーネ以外の人と話したことがなかったシシルは、半ばどうしていいか分からず、また下を向く。

「シシル、倒れたときのことを覚えているか?」
「森を歩いていたら、急に誰かに声を掛けられたから驚いてしまって、それから……」

 彼から尋ねられ、あの時のことを口にしたことで、やっと思い出した。それから……音を聞いたのだった、と。硝子に罅が入るような微かな音――自分の命が壊れる音を。手の震えがひどくなり、シシルは縋るように服の裾を掴んだ。

「こんなにも脆いなんて」

 掠れる声でぼそっと言ったシシルに、エルンストは眉を寄せた。瞳を揺らし、何かに怯える様子の少女を宥めるよう、肩にそっと手を乗せる。

「シシル……?」

 シシルは肩をびくつかせて、エルンストの手から逃れた。
 彼のせいだったと知っても、シシルに別段思うことはない。何を言おうとも、自分が救われるわけでもないと分かっているし、そもそも、シシルは怒り方などとうの昔に忘れてしまっているのだ。それでも、伸ばされた彼の手を避けずにいられなかったのは、何となく先の痛みや苦しさを思い出してしまうからだった。

「驚いて意識を失ってしまっただけです。ごめんなさい……それ以上は覚えて、いません」
「すまない、俺が急に声を掛けたせいだ。いきなり君が倒れたから、どうしていいか分からず、ひとまず屋敷まで連れてきたんだ」

 謝罪の言葉に併せて頭を下げるエルンストを見て、シシルは静かに首を横に振った。
――いい機会だった。どれほど自分が壊れやすいものなのか、身をもって知ったのだから。

「貴方は悪くありません。私がひ弱なだけなのです。こちらこそ、ここまでしていただいて申し訳ありません」
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