一章 割れ者注意 … 09

「……すまない」

 二度目の詫び言を口にしたエルンストは、行き場を失った手をそっと下ろした。静まりかえった部屋の中に、しとしとと雨の音が満ちる。下を向くばかりで一言も発しないシシルから、窓の方へと目を移して、エルンストはため息を吐いた。

「家まで送ってやりたいところなんだが、見ての通り今は雨が降ってる。俺は、この家の者ではないんだが、この家の当主とは知り合いだ。雨が止むまでの間、この家で過ごせるようにしてもらうから、ここにいてもらっても構わないか? ……見たところ、まだ全快したようでもなさそうだし」

 優しい心遣いにゆっくりと顔を上げたシシルは、エルンストの真摯な眼差しと向かい合う。

「いいの、ですか?」
「あぁ、何も気にすることはない。雨が止めば、ちゃんと家まで連れ帰ってやるから、な?」

 確かめるようなエルンストの仕草に、シシルは少し迷った後小さく頷いた。根拠はよく分からないが、悪い人ではないような気がしたから。その頷きを見届けたエルンストは、よしと言って、椅子から立ち上がる。

「シシル、腹減らないか?」
「……え?」
「そろそろ朝食の用意ができる頃だから、幾らか持ってきてやる。ちょっと待ってろ」

 返事をする間も与えず、エルンストは毛布をシシルに掛け直して、広い背を向けると部屋を出て行ってしまう。大人しく再びベッドに身を横たえたシシルは、彼に掛けてもらった毛布に顔を埋めながら閉じられた扉を見つめた。
 外は雨脚が急に強まったようで、背後で窓をたたく雨の音が、一際大きくなった。

「今度は、どれくらい……降るのかしら」

 自分の胸に手を置けば、鼓動が手のひらに規則正しく伝わってくる。やはり、死ぬのは怖い。掻き抱いた毛布の温もりに、ちゃんと生きているんだということを実感して、シシルは心底ほっとした。

 エルンストが出て行ってから暫くして、部屋の扉が遠慮がちにノックされる。窓を滑っていく雫を、横になったまま見つめていたシシルは、扉を振り返った。

「朝食をお持ちしました」

 そう言って、入ってきたのは先の赤毛の少女で。エルンストはどうしたのだろうと、不思議に思っているうちに、少女は食器をかたことさせながら、ベッドサイドにあるテーブルまでトレイを運んでくれた。

「起き抜けに、たくさん召し上がるとお体に触るかもしれませんから、果物をご用意いたしました」

 白い器に盛られていたのは真っ赤な林檎。それを一つ手に取って、少女はシシルの目の前で綺麗に剥いていく。どうぞ、と勧められるがままに一かけ囓れば、ほのかな酸味と瑞々しい甘さが口の中に広がる。ほぼ丸一日何も口にしていなかったシシルにとって、その林檎は格別に美味しいものであった。

 次の一かけを受け取ってシシルは、ふと思い出したように赤毛の少女に尋ねる。

「あの、ここはどこですか?」
「ここ……ですか? ここはイオニア家。由緒正しき男爵家でございます」

 イオニア家。繰り返すように声に出してみたが、森から出たことのないシシルは、その名前やその家のことなど一切知る由もなく、小首を傾げる。すると、赤毛の少女は林檎を剥く手を止めて、黒目がちな目でシシルをじっと見つめた。

「私も一つ、お伺いしてもよろしいですか?」
「……はい?」
「貴女は、エルンスト様とどういったご関係なのでしょう?」

 咄嗟のことで、質問の意図が分からずに、シシルはひとり瞬きをした。赤毛の少女は林檎とナイフをトレイに戻すと、自身の顎に手を添えて、ベッドに座るシシルを探るように改めて眺める。

「エルンスト様がこちらに訪れになること自体珍しいことなのに、年頃の女の子まで連れてくるなんて。恋人でしょうか? でもそれにしては、ちょっと若いですものね。全く……エルンスト様のなさることは、理解しかねますわ」

 無意識のうちなのか敢えてなのかは判断できないが、ぶつぶつと呟きながら一人考察する彼女に、シシルは思わず身構えてしまう。そんなシシルの戸惑うように揺れる瞳と視線が絡み、はたと彼女は我に返ったようであった。

「あら、やだ。また、あたしったら……あれだけ叔父様に言いつけられていたのに」

 気まずそうに口元に手を添えた赤毛の少女は、視線を落として口ごもる。

「夢中になると、少々口数が多くなってしまうのが悪い癖で……どうか、ご容赦を」

 その時やっと先の質問の意味を噛み砕いたシシルは、ここに来た経緯を自分が知るところだけ、簡潔に説明した。

「私はただ……あの方に、助けていただいだけです。森で倒れていたところを」
「森で?」

 シシルの告げた言葉に、赤毛の少女はさも驚いたような顔で聞き返す。どうして彼女がそれほど驚くのか疑問に思いながらも、シシルは首を縦に振った。

「森って魔女が住んでいるのでしょう? だから、森へはほとんど人が近づかないし、近づいては駄目だと云われているのに」
「ま……じょ?」

 魔女と聞いてきょとんとするシシルに、赤毛の少女は知らないの? とさらに目を丸くする。

「森にはいつからか魔女が住み着いて、訪れる人を襲うんだって……街では専らの噂でございますよ。何人も腕の立つ騎士が魔女狩りに森に出かけて、その都度、酷く怯えて帰ってきたそうですよ」
「そんなはず……ありません」

 我にもなく、シシルは言い返していた。現に生まれてからずっと。シシルは何事もなく森で暮らしてきたのだ。幼い頃一緒に暮らしていた母や、泉に住むウンディーネもそんな話をしたことはなかった。時折猟師の姿を見かけるくらいで、森を訪れる人が、ほとんどいないというのは確かであったが。
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