一章 割れ者注意 … 07

「……エルンスト・イオニア、陛下に拝謁致します」
「面を上げよ、エルンスト」

 ややあって自分に降り掛かった声に従って、エルンストは顔を上げた。鮮やかな深紅のカーペットが敷かれた壇上から、国王は人好きのする眼差しでエルンストを見下ろしている。

「よくぞ来てくれた、エルンストよ」
「国王陛下のご厚意に感謝致します」

 恭しく礼をしたエルンストに、国王の隣に座る王妃が尋ねる。

「……ねぇ、騎士エルンスト。先ほどは、アトリに何を言われておりましたの?」
「殿下は、お気に召しますお相手が見つからないようで」
「そんなことだろうと思っておりましたわ。陛下、ご覧になって。またあんなつまらなそうな顔をしてるんですもの」

 令嬢たちに半ば引き回されるようになっている王子を眺めながら、くすりと笑う王妃に、国王は困ったように深い息をつく。

「アトリは、本当に結婚するつもりがあるのだろうか」
「私が先ほど聞いた限りでは、アトリ殿下は心に決める相手さえ見つかれば、そのつもりだと仰せに」

 控えめに笑顔を浮かべ、エルンストは進言した。アトリ王子のいる方へと目を向けた国王は、そうだといいのだがね、と溜め息まじりに呟く。つられてエルンストも後ろを見やれば、ダンスの相手を申し込まれたのだろうか。アトリは微笑みもせず、淡々とダンスを踊っている。それでも、思わず目を引かれるような雰囲気を持っているのだから、大したものだとエルンストは心の中で呟いた。

「そういえば、貴方の家はご令嬢を推薦なさらないのね」

 王妃の声に引き戻されて、エルンストは壇上に向き直る。

「……残念ながら、イオニア家には王室に嫁げるような妙齢の娘がおりませんので」
「そう、それは誠に残念だわ。貴方の家でしたら私は歓迎致しますし、アトリも関心を持ちそうだと思ったのだけれど」
「王妃は、相変わらずエルンスト贔屓だな」

 揶揄うように笑った国王に、王妃はあっけらかんと答える。

「あら、だって。エルンストは、私たちの命の恩人ですもの。陛下はお忘れですの?」
「忘れてなどおらんよ、ちょっと言ってみただけではないか」
「もしかして、陛下。……妬いていらっしゃるの?」

 率直な王妃の言葉が図星だったのか、はたまた単に気恥ずかしかったのか。探るような王妃の視線から逃れるように目を逸らした国王は、誤摩化すように咳払いをした。

「ところで、エルンスト。アトリはさておき、君自身はどうなんだね」

 どう、と言われ今度はエルンストが目を泳がせる。国王の聞かんとすることは一つ。――自分の伴侶のことだ。

「いえ、私は……今の生活で、満足しておりますので……お気遣い感謝致します」

 当たり障りのない言葉を選びながら、言葉を濁す。納得しない様子の国王や王妃が何かを言う前に、時期よく、後ろに公爵家の夫妻が王座の方へとやって来た。そこで、エルンストはほっと胸を撫で下ろして暇乞いに移る。

「私ばかりがこの場を占有しては、他の貴族の方々が挨拶に参れません。今日のところは、そろそろ失礼させていただきます。今宵はご歓談いただきまして光栄でした、国王、王妃両陛下」
「上手いことを言って逃げますのね」

 呆れるように笑って、王妃は国王と顔を見合わせた。

「……また君に招待状を送らなければならないようだ」

 国王の言葉に内心ぎくりとしながらも、エルンストは笑みを返し、深々と礼をして碧のマントを翻した。

 形式通り国王への挨拶を済ませたエルンストは、優雅に会話をする貴族たちの合間を縫って、出口へと歩く。知り合いがいるような会(パーティ)ではなかったし、騎士の身分であるエルンストが、貴族たちの会話に混ざっていくような理由もない。はなから、国王陛下に顔を見せたらすぐに帰るつもりでいたのだ。

 足早にホールを抜ける途中でエルンストは、同じように夕食会に招かれていたローランの姿を見つけた。彼は、幾人かの貴族たちの娘たちの輪の中で、静かに小さなグラスを傾けている。しかし、頬を染め、楽しそうに語らう年頃の娘たちに向けられる彼の柔らかい笑みは、何処か違和感があって。思わず、エルンストは足を止めていた。

 エルンストの目に映る、穏やかに笑んでいるはずの弟。けれど。その弟の目が、エルンストには色を失っているように見えた。あんなにも近くにいるのに、ローレンを囲う彼女たちの誰一人として、気付いている様子はない。何も捉えていないかのような、虚ろで冷えきった――まるで人形思わせるような彼の目に。

 自分に注がれる視線に気付いたのか、ふと顔を上げたローランと目が合った。エルンストを見つめる彼の涼しげなアメジスト色の瞳は、はっとしたようにほんの一瞬見開かれ、細められる。改めてエルンストに向けられたのは、いつもと何ら変わらない、ローランの微笑みだった。

「兄さん」

 ローランの呼びかけを聞いて、彼の周りにいた貴族の娘たちもエルンストに一斉に目を向ける。

「まぁ、ローラン様のお兄様ですの?」
「ローラン様には、お兄様がいらしたのですね!」
「今まで、ちっとも存じませんでしたわ」

 思い思いに言葉を連ねる彼女たちに、ローランは好相を崩すことなく言ってのけた。

「えぇ……私の自慢の兄ですよ。とても尊敬しています」

 思わぬ言葉にエルンストはローランを見たが、当のローラン涼しい顔をしている。しかし、彼の手にした小さなワイングラスの液面は、僅かに揺れていた。
 嘘をつくのが上手くなったと思っていたが、そういうわけでもないようだ。と、エルンストは、誰にも分からないように小さく笑った。

「ローラン様のお兄様は、騎士であられるの?」

 エルンストの出で立ちを眺め、ずっと怪訝そうな顔をしていた貴族の娘の一人が、遠慮がちに尋ねる。
 彼女が不思議がるのも自然なことであった。
 イオニア家は、それなりに名の知れている列記とした男爵家。普通に考えれば、兄であるエルンストが当主を継いでいるはずだ。ところが、今のイオニア家の当主は、兄のエルンストではなく、弟のローランの方なのである。

「あぁ……まぁ」
「兄さんは、騎士になりたくて自ら家を出たんだ」

 曖昧に返すだけのエルンストの代わりに、ローランが言い添えると、やっと納得したように、そうでしたの。と彼女は微笑んだ。
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