一章 割れ者注意 … 06

「どうだ?」

 診察を終え、聴診器を仕舞う医師にエルンストは尋ねる。しかし、医師は怪訝な顔をして頭(かぶり)を振っただけだった。

「私が診た限り、どこも悪い所はないように思われますが」
「だが、急に目の前で彼女は倒れたんだぞ。何でもない人間が倒れたりするのか?」
「そう言われましても……」

 困ったように眉を寄せる医師をこれ以上責めるのは、思い直してエルンストは黙り込む。すると、傍で控えていたクラヴィスが、ふと口を開いた。

「その娘さんの年の頃にしては、少々頼りないようにお見受け致します」

 その言葉に医師も頷く。

「そうですね。それも含めて考慮するならば、恐らく精神疲労か……もしくは栄養不良と言ったところでしょう」

 茶色の鞄を下げて立ち上がる医師を見たクラヴィスは、先立って部屋の扉を開ける。見送らねば、と腰を上げたエルンストに医師は振り返った。

「とりあえず、もう少し様子を見てみましょう。もし今よりも悪くなるようなことがあれば、直にお呼びください」
「あぁ、そうする」

 医師の言葉に素直に応じたエルンストを、彼は眼鏡の奥で優しく見つめた。

「エルくん……君は、お父さんによく似ていますね」

 エルンストは一瞬固まって、それから目を伏せる。

「そう、だろうか」
「そうですとも。見た目もそうですが、立ち振る舞いまでよく似ていますよ」

 では。にこりと笑った医師は、微かに薬草の香りを残してその場を辞す。玄関先まで医師を見送るために、クラヴィスも追って部屋を出て行った。

 一人残されたエルンストは、深い溜め息をつく。

 部屋の中は既に薄暗い。ベットの横に設けられた窓から見える空は、厚い雲に覆われどんよりとしていた。夜頃から天気が崩れるのだろうと思っていたが、もしかしたらもっと早まるかもしれない。

 ――後で、クラヴィスに雨支度ができているか聞いておかねば。

 そんなことを考えながら、テーブルの上のランプの灯を点しているうちに、丁度クラヴィスが戻って来た。

「明日から降りそうだが、雨支度はできているか?」
「もちろんでございます。私めも昼間雨知らせに会いましたから、直ぐに準備をしておきました。エルンスト様が、幾日か滞在なさると思いましたので、エルンスト様の分の部屋も手配済みです……要らぬ配慮かもしれませんが、念のため、奥様の部屋から一番遠い部屋をご用意させていただきました」
「悪い……助かる」

 少し決まりが悪そうにして、礼を述べたエルンストに、クラヴィスは恐縮ですと控えめに笑う。彼は昔から妙に勘の鋭い人で、心の内は概ね見透かされているのだ。幼い頃はそんな彼が怖くもあった。しかし今となっては、そんな彼だからこそできる細やかな気遣いが、エルンストにとって何よりも有り難かった。――つくづく彼には頭が上がらないというわけである。
 
「エルンスト様も、そろそろ夕食会のご準備をなさった方が。ここは私めにお任せくださいませ」
「そうだったな。着替えてくる」

 エルンストは言って、部屋を出る前にちらりと少女の寝顔を伺った。ただ眠っているだけのようであるのに、彼女は未だ目を覚まさないでいる。少女の閉ざされた瞼を縁取る長いまつげは、白い頬に影を落とすばかりで、ぴくりとも動かない。

「……早く、目覚めるといんだが、な」

 不安そうな呟きを残し、エルンストは部屋の扉を閉じた。

*・*・*

 招待状の確認を済ませて、エルンストが王宮に入る頃には、既に集まった貴族たちでホールは賑わっていた。

 身なりを整えて来たとはいえ、騎士であるエルンストが、身につけているのは小綺麗な燕尾服ではなく甲冑である。この華々しい雰囲気の中でエルンストは、少々浮いていた。
 時折向けられる好奇の視線を掻い潜りながら、挨拶をするために一番奥の国王の元へと向かっていると、不意に背後から呼び止められる。

「あ! エル!」

 声のした方を振り返れば、たくさんの淑女(レディー)たちに取り囲まれた少年――この国の王子殿下が困ったようにして、足早にエルンストの元へやって来た。多くの男性が夢見るような状況に置かれながらも、彼はその状況に全く関心がないようである。

「……助けてよ、エル」
「殿下もいい加減、覚悟を決めたらどうですか」
「そ、そんなぁ……そう言うエルだって、結婚してないじゃないか」

 聞きたくない。とでも言うように、視線を逸らした王子の額をエルンストは弾く。

「私と殿下じゃわけが違うでしょう」

 自分を待つ後ろの淑女たちを気にするようにちらりと見やって、王子は肩を落とした。

「僕だって……この人だって相手がいれば、結婚するつもりだよ? でも……」
「今のところ、その相手はまだ現れてない、ですか」
「……うん」
「のんびりし過ぎていると、私みたいに行き遅れてしまいますよ」

 別に構わない。そんなことを口にしながら剥れる王子に、エルンストは苦々しく笑った。

「とりあえず私は、これから国王陛下の所に挨拶に言かねばなりませんので。殿下、また後ほど」
「ちょっ……! ちょっと、エル! 僕を一人にしないでったら! ねぇ!」

 王子の切実な呼び声も虚しく。笑顔でやんわりと王子の願いを断ち切って、エルンストは真っすぐホールの奥へと突き進んだ。流石に王子も仕方がないと観念したらしく、大人しく淑女たちに囲われた。

 音楽や貴族たちの談笑で満ちるホールを背にして、エルンストは膝をつく。その動きに合わせて、ひらりと碧のマントが広がった。自分の上から静かに注がれる視線のせいか、甲冑の重さが嫌に身体に伸し掛かるように感じられた。
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