一章 割れ者注意 … 05

「随分とお顔をお見せにならないので、心配しておりました。お元気そうでなりよりでございます」

 少女を寝かせたベットの傍らに寄り添うエルンストに、老爺――イオニア家の執事であるクラヴィスは声をかけた。

「ここは面倒ごとが多すぎるからな、何となく帰る気にならなかった」
「そうでございましたか」
「クラヴィスこそ、元気そうで良かったよ」
「私めのことなどを気にかけてくださる変わり者は、エルンスト様くらいでございます」

 さりげなく挟まれた冗談に、張りつめていた気がほぐれてエルンストはようやく笑みを漏らした。そして、本当の理由を分かってはいても、口に出さないでいてくれたクラヴィスの気遣いに、エルンストは心中ほっとする。彼はエルンストが生まれるよりも前からイオニア家に仕えており、エルンストとの親交も深い。エルンストがこの家を出ると決めたときも、一番親身になって手を貸してくれたのは彼であった。

「幸い、奥様は外出中でございます。ここは私めが引き受けますゆえ、エルンスト様も少しお休みになられては?」
「それほど疲れてないから俺は大丈夫だ。それに、この子が気がかりで今は休めそうもない」 

 ベットの上に横たわる少女に目を移して、エルンストは言う。苦しげだった表情は幾分か和らいだような気がする。それでもまだ、彼女の顔色は優れない。

「でしたら、代わりにお茶をご用意致しましょうか」
「あぁ、頼む」
「かしこまりました」

 クラヴィスが部屋を下がってからいくらもしないうちに、部屋にノックの音が響いた。随分と支度が早いなと訝しんだが、それもそのはずで。ドアを開けて姿を見せたのは、クラヴィスではなかった。

「……お前か」

 ちらりと、扉の方を向いてすぐにエルンストは視線をベットに戻した。

「久しぶりにお会いしたのに、随分とつれないですね」
「悪いな、社交性があまりないもので」

 目も合わそうとしないエルンストに、訪問者は、母親ゆずりの端正な顔立ちで、さもがっかりしたような表情を浮かべる。この頃、イオニア家の当主が年頃の娘たちの間で噂になっているのはこういう訳かと妙に納得した。

「仮にも兄弟の仲じゃないですか。どうしてそう辛くあたるんです?」
「お前の口からそんな言葉が出るとはな」
「兄さんこそ。暫く顔を見せないと思えば……いきなり少女を連れてくるとは。似つかわしくないことをなさりましたね」

 そう言って隣に立った弟は、エルンストを見下ろす。

「なぁ、ローラン」

 ここにきて初めてエルンストは、自分の弟であるローランの目を見た。何でしょう、とローランは顔色一つ変えずに、エルンストの視線を受ける。

「俺は、もうこの家のことには関わらないと約束したはずだ。なのにお前は、何をそんなに怖がってるんだ?」
「どういう意味でしょう、私には分かりかねます。どうして私が兄さんを怖がる必要が?」

 すっ、とまたエルンストはローランから視線を外した。

「俺の思い違いならいい。悪かったな」

*・*・*

 後ろでドアを閉じたローランは、ドアを背にしたまま落ち着かない自分の胸に手を当てる。

――今更何故、私があいつを怖がる必要が?

 どうしてこんなに自分が動揺させられたのか、ローランは不思議でならなかった。これまで全て、思惑通りに事は運んで来たのだ。そもそも相手には対抗しようとする意思すらない。それにも関わらず、ローランは兄という存在が気になって仕方なかった。

 昔からこれほど冷えきった間柄ではなかった。寧ろ仲の良い兄弟だったと記憶している。何一つ残らずあいつから奪いなさい、と母から告げられたあの日までは。

「ローラン様、どうかなさいましたか?」

 クラヴィスに声をかけられ、ぼうっとしていたローランは我に返って微笑む。トレイに乗せられたティーポッドから香る紅茶の匂いが騒ぐ心を落ち着けた。――大丈夫、何も怖がる必要なんてない。

「何でもありません、兄さんをよろしく頼みますね」
「心得ております」

 その場を後にしかけたローランはそうだ、と振り返った。

「あの娘さんが目を覚ましたら、一応私にも声をかけてください」
「承知いたしました」

 恭しく礼をしたクラヴィスが、部屋の中に姿を消すのを見送ってローランは笑顔を消した。

「今はまだ、様子見ということにしましょう。……兄さん」


*・*・*

 真っ黒な世界で倒れていたシシルは目覚めた。ぼんやりとする頭で辺りを見渡せば、暗闇の中に目が覚めるような白。よくよく見てみれば、それらは水晶のごとく透き通った美しい木々で。どこか現実離れしたような世界に、シシルは目を瞬かせる。自分は死んでしまったのだろうか、漠然とそんなことを考えながら気怠い身体を起こした。

「ぁっ……」

 途端、心臓に針を刺されたような痛みを覚えてシシルは唸った。息をすることですら困難に覚えるその痛みに、ぎゅっと目を閉じて耐え忍ぶ。不意にひやりとしたものが頬に触れ、シシルははっと目を開けた。――手だ。自分の頬に触れるのが何か、それだけは分かる。しかし、顔を上げようとしても身体が動かず相手の姿を確認することは叶わない。

 もがけばもがこうとするほどに、頬を包み込むように触れていたその手が込める力は強くなり、爪が頬に食い込んだ。

「だ、れ……なの」
 
 辛うじて声を発すると、頬にかかっていた手の力がやんわり抜かれて、代わりにその手が顎を持ち上げる。上を向かされたシシルは、自分を見つめる黄金色の瞳と目が合った。――自分を掴んで離そうとしない雪のように白く見目麗しい女。

「綺麗ものが壊れていく様を見るのが好きなの」

 薄く綺麗な形をした唇が耳元で囁く。何とかしてその女から顔を背けたいのに、やはり身体は動かぬままで。黄金色の目はそんなシシルを面白がるように細められ、白い手が少女の髪を優しく撫でた。

「でも、あまりにも呆気なく壊れてしまうのでは、つまらないわ。だって貴方の……は……のに。……もう少し……ないと」

 女に触られたせいか、麻痺したかのようにだんだんと思考回路が働かなくなっていく。確かに女の言葉を聞いているはずなのに、全く内容が頭に入ってこず、理解することが出来なかった。含むような女の笑い声を耳に残しながら、再び薄れていく意識の中にシシルは身を委ねたのだった。
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