一章 割れ者注意 … 04

*・*・*

 ふと鼻先をかすめた湿った匂いに、道に一人立ち尽くしていたシシルは我に返る。もうじき長雨が来るとその風は伝えていた。寒く、ほとんど実りの無い月の節を凌ぐために、家に備えてあった食料はそろそろ底をつこうとしていたことを思い出す。シシルは焦った。雨が降り始めれば、森の中が泥濘んで足場が悪くなるため、今以上に外に出ることは難しくなるのだ。

「早く帰らないと」

 家に帰って水を置き、もう一度森の中を食料を求めて歩かねばならない。幸い、雨知らせの風に居合わせた。何んとか明日の長雨までには雨支度を間に合わせられるだろう。少しだけ早足になりながらも、慎重に道を進んでいく。

 その焦りがいけなかった。シシルは今日の雨支度のことばかりを考え、周囲を確認することを怠った。近づいて来る馬の蹄の音すらも、考えふけるシシルの耳には届かない。ましてや、自分が背後から呼び止められるなど、露程も思っていなかったのだ。

「お嬢さん」

 突然の声に、シシルは自分の心臓が跳ねるのが分かった。ぴしっ、と意識していなければ聞き逃してしまうほどの、微かな音を聞いた気がした。

 驚いた反射で肩が上がり、手の力が抜ける。バケツは支えられる力を失って、手から離れていった。バケツが地面を打つまでのその瞬間が、シシルにはとても長く感じられた。重い音をたてて地面を叩いたバケツから水が零れ、地面に黒々と滲む。それは、まるで自分の血が広がっていくかのようであった。

「っ……」

 途端、胸に激痛を覚えてシシルはその場に崩れる。土を融いた水が纏わり付いたが、そんなことはもう、どうでもよかった。死とはこんなにもあっさりと訪れるものなのか。混濁する意識の中で、シシルはたった一人の肉親であった母のことを思い出していた。


*・*・*

 雨が来るな、鼻に残る湿った匂いにエルンストは眉をひそめた。恐らく、リンデンベーグに幾日か滞在するはめになるであろう。そう考えると、ただでさえ重い気が一段と重くなる。

 どうして、こうも思うようにいかないのだろうか、エルンストは思う。生家を離れたら、ひっそりと生きていこうとあれだけ決めたのに、運命という気まぐれなやつはそれを許さなかった。自分と同じような弱い立場の人を助ける仕事をしたい、と騎士に志願すれば、出来すぎたような成り行きで功績をたて、名が上がってしまった。遂には、王から目をかけられ準男爵の位まで得てしまった。

 せっかく逃げ出して来た生家からまた呼び戻される始末である。唯一ついていないと言うならば、適齢期をとうにすぎたというのに所帯がないことで。それを気にかけてか、彼に目をかける王はことあるたびに夕食会に呼んでは、縁を持たせようとする。しかし、当のエルンストは妻がいないことなどさして気にもとめていなかったし、特に欲しいとも思っていなかったのだが。

 望めども滅多に手に入らぬものを、願わずしても得てしまう。傍からすれば有り難い話なのであるが、そんな自分を好ましく思わない者が周囲に大勢いるというのだから、何とも皮肉な話だとエルンストは思う。決して自らの境遇を厭っているわけではない。しかし、時に煩わしく感じることもある。

 小さく溜め息をついて、エルンストはぼんやりと森の中を眺める。幼い頃訪れたときと何ら変わらない穏やかな森。

 このままあの頃のように道に迷って、森に捕われてしまうのも悪くないな。そんなことを思いながら、何気なく見やった道を外れた木々の先に、人影を見つけてエルンストは馬を止めた。あの日の精霊だろうか。そんな考えが頭を過る。エルンストは好奇心に駆られて、躊躇うこと無く渋る馬を人影の方に進めた。――もはや魔女が出ると云う噂など、この男は頭の片隅にも残っていなかった。

 いくらか近づいたところで、エルンストはその人影があの日の精霊でないと気付く。佇むその影はあの精霊よりもずっと若い――少女の姿をしている。
 声をかけようとして、エルンストは暫し躊躇した。その少女は、どこか人を拒むような雰囲気を纏っていた。それは、彼女が年の割にはひどく落ち着いているように見えたせいもあったが、何かを憂うような儚げな面持ちが、あのまだ年若い少女の表情にしては、あまりにも似つかわしくなかったのだ。

 エルンスト自身が、そのような面持ちを知っていたからかもしれない。病床に着いていた母が時折、あのような顔をしていたのを思い出す。その顔を盗み見たエルンストは幼心に、なんて美しいんだろう、と感じた。しかし、同時にあのような顔を見ることが、何故かひどく悲しかった。気がつけば、亡くなった母親の姿に少女を重ね合わせていた。

 だから、歩き出した彼女を見て、結局は声をかけられずにいられなかった。何を言おうと決めたわけではなく、口が勝手に彼女の背に向かって呼びかけていた。

「お嬢さん」

 急に呼びかけられて驚いた少女は、肩をびくつかせてバケツを取り落とす。ごとり、と音を立てて落ちたバケツの水が、少女の足下を濡らした。

 驚かせてしまって、すまない。そう声をかけようとした彼の目の前で、彼女は急に苦しそうに胸を押さえ、崩れ落ち。暫時、思考停止したエルンストは我に返ると、慌てて馬から飛びおり、地面に倒れた彼女の元へと走り寄った。

「おい、大丈夫か?」

 揺すっても彼女は目を開ける気配がない。寄せられた形のよい眉だけが、彼女の苦痛を訴える。考えるよりも先に、身体が動いた。ここからは、リンデンベーグの街が一番近い。早く連れて行って、彼女を医師に見せねば。

 エルンストは、軽々と少女の身体を抱き上げて、自分の馬にそっと乗せた。彼女が辛くないようにと、馬の首を抱かせ後ろから支える。引き寄せた少女の身体は、なんとも心もとない細さで、一層エルンストの不安を煽った。

「急げ」

 急かす主人のかけ声に答えるように、馬は短く嘶くと少女と主人を乗せて森の道を走った。

*・*・*

 馬を走りに走らせ、リンデンベーグに着くと、エルンストは躊躇うこと無く一つの屋敷の戸を叩いた。

「……エルンスト様!」

 ノックに応じて家の戸を開けた老爺は、戸の前に立つ彼の姿を見て目を丸くして。エルンストに抱かれ、ぐったりとする少女に目を移してさらに目を大きくした。
 
「そちらの方は?」
「そんなことよりも、至急医師を呼んでもらえないか、頼む」
「エルンスト様の頼みでしたら。とりあえず、医師が来るまでは安静に寝かせておかれた方がよろしいでしょう」

 老爺は女中を呼んで、医師を呼びに向かわせるとエルンストと少女を家の中に招き入れる。すると、階上から聞き慣れた声が降ってきた。

「これはこれは……珍しい客人ですね」
「失礼は百も承知だが、挨拶は後で構わないか」

 声の主は階段の欄干に寄りかかって、ふうん、といかにも気のないような返事をする。しかし、屋敷にある客間の一室に通されるエルンストの腕に抱かれた少女の存在に気付くと、興味深そうに身を乗り出した。

「誰、あの子」

 粗末な衣服を纏ってはいたが、綺麗な子だった。確かあんたは王族との婚戚なんて興味は無いと言ってはいなかったか。

「一体どういうつもりなんだい、兄さん」

 欄干から離れた男は、冷ややかな目で兄の消えた部屋の扉を見やった。
 
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