一章 割れ者注意 … 03

 森を抜ける道は、シャウロンデ王国の王宮があるリンデンベーグの街への一番の近道である。しかし、この道を選んでリンデンベーグへと行く者はほとんどいなかった。
 森には、魔女が住む――それが専らの噂であったから。
 森に住む魔女に遭った者は、呪い殺されてしまう。いつからかそんな噂が広まって、人はすっかり森に寄り付かなくなってしまった。

 しかし、その噂が広まり始めたときから、エルンストは随分と訝しんだものだ。
 この森には、まだ彼が幼い頃に何度か狩猟に行くという父に、連れられて来たことがある。その際一度も魔女には遭ったことはなかったし、そもそもその頃は、魔女がいるという噂こそなかったのだが。

 それに、たった一度きりであったが、この森で親切な精霊と会ったことがあった。
 父とはぐれて道に迷って怯えていた自分の手を、引いてくれた冷ややかな手を今もしっかりと覚えている。

*・*・*

 草むらの影に見つけた小動物を追いかけるのに夢中になっていた少年は、ふと我に返って立ち尽くした。いつの間にか、道を外れてしまったらしく、見渡す限りを木々に囲まれ、辿るべき道も、自分を連れてきた父の姿もどこにも見当たらない。

「父上?」
 
 随分と返事を待ったが、自分の呼びかけた声に答える声はなかった。遠くでチクチクと野鳥のさえずりが聞こえるばかりである。自分の心臓の音がやけに煩く感じた。

 ――父上を探さなくては

 その一心で歩きだしたが、無論どちらへ行けば道があるかなど年端も行かぬ少年が知る由もない。少年はそれでも、闇雲に歩いた。自分に踏まれた草の撓る音さえ、少年を怯えさせた。
 行けども行けども心ない木々が少年を囲み、まるで彼を嘲笑うかのように、時折かさかさと葉を振るわせる。
 「森には、人を襲うような獣がいる」森に来る途中で聞いた父の話を思い出して、ますます急く気持ちに、少年は泣きたくなるのを必死に堪えて、もくもくとひたすらに歩を進めた。

 さらにしばらく行くと、急に森が開け、少年は泉に行き着いていた。
 きらきらと太陽の光を映す泉の水を目にした瞬間、急に喉の乾きを思い出して、泉に駆け寄って手に水を掬う。冷たい泉の水はすっと喉を滑って、少年の心をいくらか落ち着けた。泉の周りは柔らかな草が茂り、疲れた少年を引き止める。
 森の方を振り返れば、先が見えないほどに木々が鬱蒼と待ち構えている。

 父の温かい手が恋しい。母の優しい声が恋しい。
 膝を抱え、顔を埋めた少年は初めて「怖い」と口にした。
 暗くなってしまう前に、なんとかして父と合流したいと思うが、もう少年には立ち上がって暗い森の中を彷徨い歩く元気はほとんど残っていなかった。

 突然ぱしゃんと水を跳ねる音が聞こえ、少年は思わず身構えた。恐る恐る顔を上げた少年の前にいたのは、子供心にも美しいと分かる女の人。何よりも、人と会えたことにどれほど安堵したことか。
 
「貴方、道に迷ったの?」

 澄んだ声で、女の人は少年に尋ねた。

「……はい」

 女の人は少年の元まで来て、彼の手を取った。

「いらっしゃい。私が森の外まで連れて行ってあげるわ」
「本当ですか?」

 ぱっと顔を輝かせた少年に、女の人はやんわりと微笑む。

「えぇ、でも森の外までよ。それ以上は行けないわ」
「森からは帰る道は分かります、ありがとうございます」
「そう、よかった」

 先ほど一人きりで歩いていたときは、あんなにも恐ろしかった森の中も、女の人に手を引かれて歩いてみると、全く違って見えた。実に穏やかで、清らかな森。時折吹き抜ける風の心地いいこと。

「私の手、冷たいでしょう?」
「そう、ですね」

 女の人から問われて初めて、少年は彼女の手がひどく冷たいことに気付く。彼女の手は、まるでずっと冷たい水に浸けていたかのように、冷えきっているのだ。

「私は泉の精霊だから、手がとても冷たいのよ」

 この人は、自分を揶揄っているのだろう。そう思った少年は何も言わずに女の人を見上げる。その反応が気に入らなかったのか、女の人は、少しつまらなそうな顔をして言った。

「……あら、信じていないような顔ね」
「精霊は過去の人の空想の産物だと先生に教えられました」

 「随分と賢いのね」皮肉ともとれるその言葉に、もしかすると彼女は本当に精霊なのかもしれない。と少年は思う。

「いるのよ、精霊は。貴方たちが見ようとしなくなってしまっただけで」

 女の人は、不意に立ち止まって近くの木に触れた。とても大きな木で、一体どのくらい長い間そこで過ごしているのだろう。樹皮は所々苔むし、その幹はずっしりと太く、根を一面に這わせている。

「どういう意味、ですか?」
 
 女の人がするのに倣ってその大樹を見上げた少年は、彼女に聞いた。

「そのままの意味よ。貴方たち人間はすぐに正と負を分けたがるけれど、そのせいで自分たちの目を潰していることには気付いていない……哀れね」

 大樹を見上げる彼女の横顔は、とても冷ややかで。少しだけ怖いと感じた。

「僕は、僕の目を潰していますか?」

 その問いに彼女は少年を見、一瞬驚いたような顔をしたが、やがてにこりと笑う。

「貴方は、貴方のその目を大切にするのよ」

 その後、約束通り彼女は少年を、森の外まで送り届けてくれた。お礼を言おうと振り返ったときには、もうその姿はどこにもなく、やはり彼女は精霊だったのだと知った。

 勿論父親にはこっぴどく叱られたが、直に無事で良かったと抱きしめられた。
 その際に精霊に助けてもらったのだと父に話すと、父は笑って息子の頭を撫でた。

「精霊様に会えるとは、お前は運がいいな。お前がいい子だから、きっと精霊様が助けてくださったのだろう」
「父上は、精霊を信じているのですか?」

 ふと疑問に思って少年が尋ねると、父は言った。

「信じているとも。私は残念ながら、この目で見たことはないがな。昔からの言い伝えだってあるんだ……さぁ、帰ろうか。母さんも心配しているだろう」
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