一章 割れ者注意 … 02

 最低限の身なりを整えたシシルは、持ってきた小さな銀色のバケツに水を汲んだ。ウンディーネに「また明日」といつものお決まりの挨拶を告げて、シシルは家路につく。行きと違ってずっしりとした存在感を示すバケツのせいで、より一層注意して歩かねばならない。

ここ――シャウロンデ王国は、温暖な時期と寒冷な時期を繰り返す。温暖な時期を太陽の節、寒冷な時期を月の節とこの国に住む人々は呼んだ。温暖な時期は、比較的天気は安定しているが、時折まとまって降る雨には気をつけないといけない。

一旦降り出せば、二日以上は雨が続くのが常である。雨の降っている間は、交通手段である舟や馬車はでない。無論、屋外で行われる市も開かれないのだ。
だから、この国に住む人々の家には五日程度のまとまった食料と水が備えられているというのが、一般的である。

とはいえ雨が降る前の日は決まって、雨知らせと呼ばれる湿気のこもった風が吹く。時に、その風を皮肉って雨降らしと呼ぶ者もあるが、それはまた別の話。要は、この国の人々は風を便りに天気の移りを知るのだ。

そして今は太陽の節ーーつまり、温暖な時節である。この日も快晴で、風もからっとして熱を帯びていた。

太陽の節の間は、動き回っていれば汗ばむくらいに、日中は気温が上がる。しかし、木々が日差しを遮ってくれる分、森の中はずっと過ごしやすかった。程よい暖かさが身を包み、時折吹く風が心地よい。気を抜けば、すぐに眠ってしまいそうになるほどに。

シシルも、穏やかな気候に気が緩んでいたのか、バケツに遮られて見えない足下に隠れていた石に、一瞬よろめいた。運良く転んでしまわずに済んだが、こういう時は本当に冷やっとする。もし下手をして倒れてしまえば、死んでしまいかねないのだ。
独りでいることや、人より不便な生活には慣れても、こればかりはいつまでたっても慣れない。

ふうっと安堵のこもった浅い息を吐いて、シシルは足下に潜んでいた凶器を避けて、再び一歩一歩確かめるように慎重に歩く。

――人並みの幸せ、か

ふと、先ほどのウンディーネとの会話を思い出す。人とは自分に無いものを常に欲しがる生き物である……稀に例外もあるが。シシル自身も、彼女の言う人並みの幸せというものに全く関心が無いというわけではなかった。
普通に笑って、怒って、泣いて。そんな風に生きることができる生活はどんなに素敵だろうか。そう考えない日はこれまで無かった。
気分のいい日には木漏れ日の落ちる森の道をスキップだってしてみたいし、天気が良い日には裸足になって、柔らかい草の上を走り回ってみたい。そんな普通の人にとっては、なんでもないような簡単なことも、割れ者であるシシルにとっては、この上も無い幸せだと感じる。

退屈だろうから。と母から与えられた挿絵付きの本を手にしてから、その気持ちは小さな少女の心の中でどんどん膨らんでいった。
多くの人で賑わう色とりどりで楽しそうな市場。異国情緒溢れる海に臨む貿易街。華やかな庭園を持ち、荘厳に造られた王宮。その本に描かれた広すぎる世界は、家に閉じ込められた少女を魅了して止まなかった。
挿絵の中のお姫様のように、素敵な人と出会って、結ばれることを夢にみたこともある。

ーー王子様でなくてもいい。自分を愛し、自分が愛した人と一緒に過ごしてみたい。

母と二人で暮らしている間の方が不自由ではあったが、独りでいるよりはずっとましだった。独りでいることに慣れているとは言っても、傍に話し相手がいるのといないのとでは大違いだ。……忘れてしまったものも、取り戻せるかもしれない。

だが、シシルには見たことも無い世界に思いを馳せて、憧れることしか叶わないのだ。実際のところ、どの程度で自分の心臓が割れてしまうのかは、シシル自身も分からない。もしかすると、思っているほどは脆くないのかもしれないし、やはり笑ったりしてしまうだけでも壊れてしまうようなものかもしれない。小さな幸せと自分の命――試してみるには、あまりにも大きな危険を伴う取引なのだ。とにかく、生きるためには用心することにこしたことはないということである。

夢に見た幸せが得られるなら死んだって構わない。そう考えたこともある。考えたことはあるが、やはり死ぬということが怖かった。死ぬのはどれくらい痛いのだろう? 死んでしまったらその先は? 考え始めるときりがなく、気持ちがすくんでしまう。

――私の生きている意味って……一体何?

シシルは立ち止まる。雲も太陽の前で立ち止まったらしく、辺りが薄暗くなった。急に手に持ったバケツがひどく重く感じられた。

*・*・*

――全く気が進まない

エルンストは馬を走らせながら、もう何度目かも分からない同じ呟きを頭の中で繰り返す。
きっとまたやつは、性懲りもなく嫌味を言うに違いない。その様子がありありと思い浮かぶがゆえに、ますますエルンストは気乗りしなくなる。
王子殿下が一刻も早くどこかの娘を見初めて婚約してくれることが、ここ最近のエルンストの切なる願いであった。彼に求婚されたがっている娘はいくらでもいるのだ。今回を最後にしてほしい。

「……たまには、違う道でも通って行くか」

浮かない気分も少しはましになるだろうと、エルンストは馬の向きを変えた。
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