一章 割れ者注意 … 01

「シシル、いいこと? 絶対に怒ったり泣いたりしては駄目よ。……もちろん笑うこともよ」

 物心ついてからというもの、長いことその言いつけを守ってきたから、シシルはいつの間にか怒り方も泣き方も、笑い方さえも忘れてしまった。
 鍵をかけられた部屋の中に囲われ、ただひたすら息をすることだけを許されたような世界は、あまりにも空虚で退屈であったはず。しかし、そんなことすら感情を殺すことだけを教え込まれたシシルには分からなかった。

「全ては貴方のためなの」

 それが彼女の母親の口癖で。
 そして幼い彼女自身もその言葉の意味をよく知っていた。自分の胸に手を当てれば、手のひらに感じる微かな心音。その音を奏でるは、驚いたり傷ついたりするだけでも壊れてしまうような割れ物――儚く、脆弱な硝子の心臓であった。

*・*・*

 エルンスト=イオニア殿――蝋封された封筒に宛てられた自身の名前を確認して、エルンストは「またか」と溜め息をついた。
 差出人は確認するまでもなく、あのお方であろうと察しがつく。上質な羊皮紙と押印されたシャウロンデ王国のエンブレムがその証拠であった。

 戸棚からペーパーナイフを取り出し、エルンストは封筒の封を切る。封筒の中から出てきたのは明日、王宮で開かれるという夕食会への招待状。
 しかし、実は夕食会というのは建前であり、その会の本当の目的は王子殿下の妃選びであることをエルンストは知っていた。
 以前から幾度となくそういった趣旨のパーティーが行われているのだが、当の王子殿下にその気がないようで、未だ声をかけられた娘はいない。

 ここ最近では、公爵家から男爵家に至るまで各家が競うようにして、己が娘だけでなく、遠く血縁を辿ってまで年頃の美しい娘を呼び寄せていると聞いた。美しい妙齢の娘子を着飾らせて二、三人は傍に侍らせて、パーティーに参加するというような異様な光景が、当たり前のことのようになっている有様である。

 皆表向きでは、何でもないように澄まし顔をしているが、その腹の内は真っ黒というわけだ。お互いの腹の黒さを確かめ合うかのような腹の探り合いめいた会話は、呆れるのを通り越して寧ろ滑稽とさえ言える。

 本音を言うのであれば、この醜い集会に参加するのは気が引けたのだが、誘い主は他でもなく、この国の王である。逆らえば、王の二つのご好意を無為にすることになりかねない。

 封筒を閉じて、再びエルンストは盛大に溜め息をついた。

*・*・*

 窓を開けると温かな光ががらんどうな部屋を一気に満たし、シシルは眩しさに思わず目を閉じる。朝の森の爽やかな風を頬に受けながら、深呼吸をすれば起き抜けのぼうっとする頭が至極すっきりした。
 九つのときに母を病気でなくして以来、シシルは森の中にひっそりと隠れるように建つこの家に、独りで暮らしていた。もうすぐ、母と過ごした時間よりも独りで生きてきた時間が追い越そうとして――シシルは十八になる。

 いつもの朝のように、ドアの前に置いておいた銀色の小さなバケツを手に、シシルは少しの緊張と共に外へと出る。

「落ち着いて。転ばないよう、足下には注意して。でもしっかり前は見て」

 幼い頃に母に叩き込まれた言葉を呟きながら、家の近くにある泉までの道をゆっくりと歩いて行く。

 無事に泉までたどり着き、シシルはほっとして腰を下ろした。たったこれだけのことが、シシルにとっては命がけなのである。小さい頃は、影のごとく纏わり付く死の匂いにいつも怯えていたが、今ではもうすっかり慣れてしまった。

 澄んだ泉の水に浸したブラシで、若菜色の髪を丁寧に梳とかす。梳かし終えたら次に、ざっくりと毛束に分けて両サイドをそれぞれ編み込み、残った髪と一緒にくるりと纏まとめて、後ろでリボンで留めた。
 水面を鏡代わりに覗いて確認したシシルは翡翠の瞳を瞬かせた。

 ふと何かの気配を感じてシシルが顔を上げると、泉の畔ほとりにこの泉の精霊であるウンディーネの姿があった。
 恐らくシシルが気付くまで待っていてくれたのだろう。
 急に声をかけて、シシルを驚かせてしまわないようにという彼女なりの配慮だ。

 ウンディーネは「おはよう、シシル」と美しい顔で微笑んだ。

「おはようございます、ウンディーネ様」

 シシルも立ち上がって会釈する。

「今日も可愛らしいこと」

 そう言ってふふりと笑ったウンディーネは、言葉通り滑るようにシシルの元までやってくると、シシルの縒れていた襟元を正した。
 泉に宿るウンディーネはシシルの境遇を知って哀れに思い、あるときふと姿を見せてからというもの、何かと世話を焼いてくれる。今となっては、彼女はシシルの唯一の話し相手であり、母代わりでもあった。母親を亡くした後、シシルが何事もなく一人で生きてこられたのも、偏に彼女のお陰である。

「こんなところで独りで暮らすには、本当に……勿体ないわ」
「独りではありません、ウンディーネ様がいますから」
「あら、あらあら。嬉しいこと言ってくれるのね」

 そういうことは、笑って言ってくれた方がもっと嬉しいのに。ウンディーネは少し残念そうに付け加えた。

「ごめんなさい。どうやって笑えばいいのか、もう分からないのです」

 笑い方を忘れてしまったなんて。と幾度思ったことか。しかし、どうにもこうにも思い出せないのである。
 目を伏せたシシルに、ウンディーネは整った眉を寄せて、心配そうにシシルの肩に手を置いた。

「いいのよ、ごめんなさいね。私が考えなしだったわ。無理に笑うことないのよ。……でもやっぱり、私としてはシシルにも人並みに幸せになってほしいの」

 幸せという言葉はあまりにも不確かだとシシルは思う。まるで泉に映る景色のように、一見穏やかに見えても、風が吹くだけで揺らいでしまうような。

「私は今生きているというだけで幸せなのではないでしょうか」

 一瞬ウンディーネは、はっとしたような顔をして、それから少しだけ困ったように笑った。

「そうね。……貴方はそれを知っているだけ幸せだわ」
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