一章 割れ者注意 … 10

 そんなシシルの事情など知らない赤毛の少女は、何事もなく幸運でしたね。と言い添えて、再びナイフと林檎をトレイから取り上げる。

「ともかく、悪いことは申しませんよ。今回は、たまたま幸運だっただけかもしれません。これからはあまり森には近づかない方が、ご自身のためだと思います。……エルンスト様も、一体どうして森の道なんて通られたのかしら」

 彼女の口ぶりからして、魔女の噂など何も知らないシシルが、森に迷い込んでしまったと思っているようであった。わざわざ違うと反論するのも気が引けて、言葉をそっと飲み込んだ。そして、さっきエルンストと名乗った男も何か訳あって、そんな”曰く付き”の森を通ったのだと知る。

――もしかすれば、あの人もそのことを知っていたから、わざわざ私に声を掛けてくれたのかもしれない。だとすれば、驚いただろうな。

「あの。エルンスト様って、どんな方ですか?」

 思い切ってシシルは聞く。さくり、と音を立てて果実に刃を入れながら、彼女は肩を竦めてみせる。滴った林檎の果汁が細い指を伝い、赤毛の少女が着ているクリーム色のエプロンに染みを落とした。

「私もよく存じません。エルンスト様は……この家で、ほとんどお話になりませんから。それに、奥様やローラン様も、エルンスト様の話題を避けておいでですし」
「ローラン……様?」
「ローラン・イオニア様。イオニア家の当主であり、私の雇い主でございます。……とても、素敵なお方ですよ」
「そう、ですか」

 ふっくらとした少女の頬が朱に染まる。剥き終えられた林檎の皮が、彼女の手から離れて白い皿の上に踊った。一度も途切れることなく剥かれたその皮は、円を描いている。
 シシルが林檎を食べ終わるのと時をそう違わずして、部屋の外側から聞こえたのはくぐもった声とノックの音。

「ネイ、入るよ」

 その声に弾かれたように赤毛の少女は立ち上がり、しゃんと胸を張る。さらに慌てて、果汁に濡れた手をクロスで丹念に拭きあげた。彼女の何処か緊張しているような振る舞いに思わず、シシルも居住まいを正し、息を呑んでゆっくりと回るドアノブを見守った。
 そして、ドアを開けた人物は、またも自分に待つように言ったエルンストではなく、シシルの知らない青年で。その姿が見えるなり少女――ネイは、その青年に向かって深々と頭を下げた。編まれた赤毛が、彼女に併せて揺れる。

「おはようございます、ローラン様」

 目の前にいるのは、すらりとした長身に、端整な顔立ち。いつか本の中の挿絵で見た王子様がそのまま抜け出してきたかのような青年。
 ――この人が、ローラン様……?

 こちらを静かに見つめる切れ長の目元を彩るは、紫水晶のような瞳。頬に掛かる飴色の髪は陽に透かせば溶けてしまいそうだ。ぱたぱたと瞬きをするシシルに、青年は穏やかに微笑む。次いで、ベッド脇に畏まって控えるネイに笑いかけた。

「おはよう、ネイ。今日もお勤めご苦労様」
「お気遣い感謝いたします」

 言葉を掛けられたことで、彼女のほんのり染まっていただけの頬が一気に真っ赤になる。先ほどまでの彼女のものとは、少し雰囲気の違う上ずったような声で礼を述べ、そのままネイは顔を上げることなく俯いていた。
 ふっと笑みを零したローランは、ベッドの上に座るシシルの元へと歩み寄って会釈する。ふわりと、品の良い香りがした。

「初めまして。私は、この家の当主ローラン・イオニアと申します。以後お見知りおきを、お嬢さん」
「ロー……ラン、様」

 確かめるようにシシルが繰り返せば、そう。とローランは笑む。

「この度は、私の兄のせいで災難でしたね。同じイオニア家の代表として、私からもお詫び申し上げます。もう起きていても大丈夫ですか?」
「……兄?」

 質問に答えるより前に、シシルは首を傾げる。

「えぇ、先ほど会われたのでしょう? 兄のエルンスト・イオニアに」

 柔らかな声色に尋ねられ、シシルは「あ」と小さく漏らす。

「エルンスト様は、ローラン様のお兄様……なのですか?」
「えぇ。あまり似ていないので、分からないかもしれませんが、私たちは兄弟ですよ」

 そう言われてみれば。改めてローランを眺めると、ほんのちょっとだけエルンストを思わせる部分があるような気がした。ローランの方がエルンストよりも色素が薄く、顔付きも柔らかい印象はあるが、それでも笑ったときの顔は似ている。兄弟と言われても別段不思議はない。しかし、兄弟と言ってしまうには、何か違和感を感じた。

 確か、エルンストはこの家の者ではないと言っていなかったか。シシルは先刻のエルンストとの会話を思い出す。それに加えて、ネイもエルンストのことはよく知らないと言っていた。彼がこの家に来ること自体珍しいとも。何か理由があるのだろうが、余所者のシシルにそれを知る術はない。

「兄からも聞いたと思いますけれど、ひとまず雨が止むまでの間は、ここでゆっくり養生なさればいいでしょう。屋敷も自由に使ってくれて構いませんから。もし困ったことや、わからないことがあれば、ネイに聞いてください」

 いいですね? と念を押すように言われ、シシルはひとまず大人しく了承しておくことにした。この長雨の最中だ。下手をすれば、家に帰り着くまでに、せっかく救ってもらった自分の身が持たないかもしれない。――ここは、素直に厚意に甘えさせていただくのが良いだろう。

「痛み入ります」

 せめてもと思い、誠心誠意を込めて深く頭を下げるシシルの髪が、するりと肩を滑った。

「……顔を上げてください、お嬢さん。私は貴方の名前をお伺いしたい」

 言われたとおりに、面を上げてシシルはローランの瞳を仰ぐ。身のこなしや物言いは言うまでも無く、ローランの方がずっと見栄えがするけれど、瞳の色は、エルンストの方が綺麗だ。そんなことをつと思う。

「……シシルです」
「シシル、ですね。覚えておきます」

 再びローランは、ふわりと微笑んだ。
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